お姉さんは女の子

 放課後の教室に戻ってくると、一人、まだ机に向かっている女の子がいる。
 桐生かすみ。俺の、永倉輝一の密かなお気に入りだったりする子だ。
「何してるの?」
 気になる女の子と二人きり。当然のごとく声をかけてみたのだが、さっぱり返事がない。
 おかしいなぁ。別に嫌われているわけでもない…、と思いこんでいるだけでもない…、はずだしなぁ。
「なぁにしてるのぉ〜?」
 と桐生の顔をのぞき込んでみると…、そこには可愛い寝顔。
 こんなところで寝ていないで帰れば良いのになぁ。そう思いながら、ふと机の上に目を移すと…。ははぁん、そうなのか…。


「今度の文化祭で、人形劇をやりたいと思っています。」

 桐生と、桐生の掛け声に集まった六人で、俺たちの文化祭は始まった。
 この学校の文化祭は、生徒全員の参加が義務づけられているわけではない。だから、何かやるにはクラス全体に提案して賛成を得るなり、気が合う仲間を集めるなりすることになる。桐生はとりあえずクラスに、興味を持ってくれる人がいないかどうか聞いてみたというわけだ。
 あまり文化祭への関心が高いとは言えない学校で、桐生はこうも簡単に参加者が集まると思わなかったのだろう。あっさり集まってしまった状態を見て、少しびっくりした様子だ。それでも驚きの表現が小さいと言うか、おとなしいと言うか、そんなところは桐生らしい。

「そうしたら、まずは脚本を書いて、配役を決めて、台詞を覚えましょ。みんなは明日までにやりたい役を決めてきて。…と言っても、主役ですら豚だけどね。私は明日までに脚本を書いてくるから。」

 こうして、明日以降の予定が発表になり、初日は無事解散となった。
 本当に何もなかったけど、これで良いのだろうか…。

「永倉、悪いが俺は狼をやらせてもらうぞ。」
 帰り際、友人Aこと明津が意外なことを言い出した。
「おまえ、実は乗り気だったんだろ? さっきはあれほど嫌がってたくせに。」
「バカやろ、やるからには気合いを入れなくてはいけない。…間違っても村人Aとかをチョイスしちゃいかんのよ。」
「そうだな、特徴もない村人役は、当然、永倉だろうな。この際文句はあるまい。」
「良かったら町娘役も譲ってあげるからね。」
 みなさん、なかなかやる気があるようで。さっきまでの反応はいったい何だったんだよ。
 ちなみに、村人や町娘は出てこないだろ。
「ま、何でもいいよ。俺は。」
 うまくいってくれさえすれば…。そう願いながら彼らを見送った。
 桐生の方を振り返ると、可愛い笑顔が…って、いないのかよっ。自分自身のことを心配すべきかも知れない…。


 人形劇の方は意外とうまく進んでいる。
 配役を決め、台詞を覚え、有志の手により人形が作られ、人形を動かしながらの稽古。ここまでトントン拍子に進んできた。本番当日まで、あと二日。
「あとは細かい台詞まできちっと覚えるだけだね。」
「…不安だ。非常に不安だ。俺は覚えるのが激しく苦手なんだ。」
「なら一番台詞の多い子豚を選ぶなよ。」
「…大器晩成型だから安心しろ。…俺自身、不安だけどな。」
 笑い声とともに交わされる話には、明らかに余裕の色が見えた。あと二日という時間は完成させるのに十分。やはり、なんだかんだ言いながらも参加した奴らが乗り気だったのは幸いしたようだ。

 しかし、こちらは幸いしていない。
 言ってみれば、意中の女の子とお近づきになるためにがんばっている俺だが、桐生との関係は相変わらず…。桐生自身も相変わらず…。お疲れ様、と言ったかと思えば、いつの間に消えているという毎日。それでいて周りから素っ気ないとか、愛想がないとか言われないのだから大したもんだよ。まぁ、俺も、桐生のことを愛想がないと思ったことはないけどさ。
「それじゃ、お疲れ様ぁ〜。」
「じゃぁね〜。」
 そう、このような声が挙がったときには、すでに桐生は…、いるぞ。
 しかも、机に座って…。

 寝てる…。

 おとなしいからか比較的まじめに見える桐生は、良好な成績と相まって優等生とも言えそうな存在。しかし、実は意外と眠り姫だったりする。さすがに放課後に寝ているのは先日初めて見たが、授業中の居眠りは珍しくない。それでいて注意されることがないのだから、やはり大したものだよなぁ。

 机に突っ伏した細い身体が、呼吸のリズムに合わせて動く。
 確かに可愛いとは思うけど、格別にどうこう言うところはない。じっと見ていると「俺は彼女のどこが好きなんだろう」などと考えてしまう。ルックスも性格も、欠点と呼べるところはないが、特に秀でたところもない女の子。
 ただ、他の人を見るときとは違う気持ちが、彼女を見る俺の中にあるのは確かだ。そして、いつも気になる存在であることも。

 そんなこと考えながら、桐生が目を覚ますのを待っている。ここで見捨てて帰ってしまうのは明らかに間違いだからな。

 とは言え…。
 ……。
 ………。

 もう三十分ほどたつけど…。
 …………。
 ……………。

 さっぱり起きる気配がないのは…。
 ……………。
 ………………。

 困ったものだな…。
 と思ったそのとき、目覚まし代わりのチャイムが鳴ってくれた。
「…ぁ、寝ちゃったんだ。」
 独り言のようにつぶやく姫を、笑顔で迎える俺。
「帰ろ…。」
 を無視する姫、って、無視するなよっ。
「おはよ。」
 そう声をかけると、ぽーっと可愛い顔でこちらを向いてくれる。
 しかし、ぽーっとしているだけあって、今ひとつわかっていないようだ。
「あれ? どうしたの?」
 …ひょっとしてまだ寝ぼけてますか?
 俺も何と言っていいものかわからず、つい沈黙しそうになるが、黙っていても仕方がないので説明することにした。

「…とまぁ、そんな桐生が起きるのを待っていたわけだ。」
「ぁ、ごめんね…。起こしてくれても良かったのに。ほら、別に今寝ようと思っていたわけじゃないから。」
 やっと戻ってきてくれた桐生はそう言いながら瞬く間に帰り支度を終え、鞄を持っていた。何ともまぁ、マイペースなお姫様で…。


「へぇ〜、自転車の後ろに乗せてもらうのって、思っていたよりずっと気持ちいいんだねぇ〜。」
 桐生は多分笑いながら、そんなことを言っている。
「そんなたいそうなものでもないだろ。」
 これはチャンスだと思って、そしてむろん暗い中を一人で歩かせるのもどうかと思い、駅まで自転車で送っていくことにしたのだが、まさかこういう風に喜ばれるとは…。まるで小さな子どものようにはしゃいでいる桐生は、普段の様子から想像もできない。
「ねぇねぇ、明日も乗せてね。早く帰れるし、気持ちいいし、素敵素敵。」
「かまわないけどさぁ、そんなに珍しいものでもないだろ?」
 あまりのはしゃぎように、つい聞いてしまったほどだ。
「珍しいよぉ。私、乗せてもらったの初めてだもん。」
「…その方が珍しいんじゃないか?」
「そうかなぁ。よく乗せてあげてはいるんだけどねぇ。」
「それも珍しいような気が…。ん〜。」

 予想外の展開に素直な疑問を感じつつ、自転車は無事駅へと到着した。
 ただ駅まで送るだけで、こんな妙な驚きに出会えるとは思わなかった…。
「ほら、着いたよ。」
「うん、ありがと。じゃぁ、またね。」
 そう言って手を振る桐生に、手を振って応える。
「じゃぁな。」
 駅に吸い込まれていく彼女の後ろ姿は、どこかまだ、楽しげだった。


 本番を明日に控えても、練習は順調に、そしてあっさりと終わった。
 すでに自分たちで満足できる仕上がりだし、誰かと競うわけでもないから、こんなものなのかも知れないが。
「…競争、か。」
 そう口にしてみて気付いた。
 桐生はいったい何のために人形劇なんかやりたがったのだろう? 俺自身の目的が人形劇から外れたところにあったので全然気にならなかったが、その辺のことを全く言わないのも珍しい。
「何か言った?」
 鞄に教科書などを収めながら、桐生は振り向いた。
 今更だが、別に聞きづらいことではないよな。
「桐生はなんで、人形劇をやろうと思ったんだ?」
「大した理由じゃないんだけどさ。」
 ゆっくりとした口調で、桐生は切り出した。

「しずくの幼稚園にね、ぁ、『しずく』ってのは妹の名前ね。そのしずくの幼稚園に、この前、人形劇団が来たのよ。ところがしずくはその日、風邪を引いて幼稚園をお休みしたの。…もう、わかるでしょ?」
「楽しみにしていた人形劇を観られなかった妹のため、か。」
 できすぎている。けれども、おまえにできるのかと言われれば、できないよなぁ。誰かのためなんてのは言い訳にしか使ったことがないような俺だ、できるはずがない。でも、いつかはやってみたいと思ってはいるんだよ。いつやれるのか、非常に疑問ではあるが…。ん〜。
「…シスコンなのよ、私。」
 考え込んでしまっている俺とは対照的に、桐生はそれこそ悩んだり考え込んだりしそうなことをさらりと言ってのけた。
「しずくと私、年が離れてるでしょ。それで結構しずくの世話をしてるからなのかも知れない。なんか、いつもしずくのことを考えちゃったりしてね。」
 何のためらいもなく話を続ける桐生には、決して引け目を感じている雰囲気などない。
 たとえ何と言われようと、妹のことが大切。妹のためにできるだけのことをする。桐生の瞳は、誰にともなくそう誓っている。
「素敵なお姉さんだな。」
 この程度のことしか言えないけれど、その視線を、桐生からはずすようなことはしなかった。言葉にはできない気持ちが伝わるように。
「そうだと、いいんだけどね。」
 照れ隠しであろう笑みを浮かべながらも、その瞳には照れも迷いもなかった。
 …シスコン、か。

「ダメよ、しずくは絶対にダメよ。」
 …ぇ?
「イヤ、そんなことは考えていないんですが…。」
 ここまでにはなりたくないな…。と思わなくもないが、ここまで言えてしまう桐生はやっぱり素敵なお姉さん、だよ。


「それじゃ、お疲れ様ぁ〜。」
「ばいばぁーい。」
「じゃぁね〜。」
 まだまだ文化祭は続くというのに、早くも解散しているのは某教室の人形劇団ご一行様。
 午前中に上演してしまい、昼飯を食いつつ成功を祝ってしまった俺たちは、もう学校に用がないのだ。文化祭そのものに興味があったわけでもないため、みな、やるべきことをやったら気分良くさっさと帰ろう、ということのようだ。

 終わったんだな…。
 最初は人形劇そのものに思い入れなどなかったが、今では終わってしまったことを少しだけ寂しく感じる。むろん、成功したのだから、嬉しい気持ちでいっぱいなんだけど。
「帰らないの?」
 ついぼーっと考えてしまった俺に、桐生がのぞき込むように声をかける。
「帰るよ。自転車、乗っかってく?」
 一昨日より桐生のお気に入りとなった、自転車の後部座席こと後部荷台。
 最初は大げさに喜ぶものだと意外に思ったが、昨日の話を聞いたらすぐにわかった。きっと、妹をよく自転車に乗せてあげるのだろう。
「ありがとう。」
 帰るべく鞄を持って席を立つと、くるりと背中を向けた桐生が妙に落ち着いた声で言う。
「わざわざお礼を言われるようなことじゃないよ。」
 ついでに駅まで送っていくだけだし、大はしゃぎの桐生が見られて嬉しいくらいなんだから。
「…聞いたよ。みんなに。」
 ん? どういうことだ?
「私のためにお願いしてくれたんだってね。」
 ここまで言われて、何のことかわかった。

「…バレちゃったか。バレちゃったら仕方がないな。そう、俺が声をかけて人を集めたんだよ。前の日、桐生が寝ているときに企画書を見ちゃってさ。」
 なぜそんなことをしたのか、言わなくとも気付いているんだろうな。
 思い通りに事が運ばなかった今、恥ずかしくて仕方がない。でも、それで良かった。俺にとって思い通りが最良の結末じゃなかった。なぜ好きなのか、それがわかって、もっと桐生が好きになれたのだから。

 桐生は何も言わずに、ただ、背を向けている。
 …それで良かったのは、俺だけなのか。
「妹は、しずくちゃんは喜んでくれた?」
 問いかける俺の声には不安が混じっている。不安でいっぱいだった。
 桐生は妹のために、人形劇をやりたがった。そして妹のために、人形劇をやった。どんな過程であろうと妹が喜んでくれたのなら、桐生は笑っているだろう。この二週間、桐生と一緒にいた俺には、そんな確信があった。だから、黙り込んだ桐生は見たくないんだ。
「…喜んでたよ。とっても喜んでた。だから、いいんだよ、そのことは。ありがとう、ってホントに思ってる。でもね。」
 いつもとは違う、鈍い輝きをたたえた彼女の瞳が俺を映す。そして、続けた。
「やっぱり、シスコンなんだな、って、思っちゃった。」
 …いったいどうしたって言うんだ?
 困って助けを求めるような、そんな目で俺を見つめている。
 喜んでくれたんだろ…。それなのに、なぜ…。
「素敵なお姉さん、だよ。」
 この程度のことしか言えないけれど、本当に素敵なお姉さんだと思っている。他人の俺ですら好きになってしまう、とびきり素敵なお姉さんだよ。
「そうかな。それなら嬉しいな。…でも、素敵なお姉さんは、素敵な女の子じゃなかったよ。…ごめんね、みんなに言われてもまだ、気付かなかった。」

 …うまくいかないものだな、ホント。
「こうしろ、って言われた。それに、こうしたい、って思ったから。」
 目の前の桐生は、とても可愛かった。
 けれども、このワンシーンだけに遭遇していたのなら、こんなにも好きにはならなかっただろう。
「なるほど、気持ちいいね…。何も言わずに抱きしめてあげてね。そう、保母さんに言われたことがあるんだ…。」

 腕の中に現れた彼女の瞳。
 それは仮初めの恋。そして…。

あとがきに続く。